PROFILE

秋月 雅


大阪生まれ、京都在住の写真家。

小さな頃から内向的で特に得意なこともなかった私が、初めてハマったのが写真だった。

シャッターを押すだけで簡単に自分の世界が表現できるのが面白く、高校の初バイトでカメラを買い、短大では写真部で活動。誰に見せるわけでもなかったが、写真屋のおっちゃんだけはいつも褒めてくれていた
転機になったのは、社会人になってからの遅咲きの初恋相手への失恋。押しかけたら結婚してくれるはずと大阪から茨城県へ引っ越したのに、1年で仕事を求めて実家へ戻ることに。遠距離恋愛になった途端、「職場の人と付き合うから」とあっさり振られたのだった…。もう死のうと考えたが、「なんかすごい写真を撮ってから死のう」と思い直し、ハッセルブラッドで夜な夜な花を撮り始めた。自室の片隅で撮影に没頭している時だけは何も考えずにいられた。


その後も写真屋に通い詰め、企画展に出展したり、コンテストでは賞を取り、個展も3度開催した。動機は「彼氏がほしい!」の1点だったが、写真はどこに行っても褒められ、自分が生み出したもので人の心を動かす快感を覚えた。


そして2014年、5年働いた会計事務所を辞め、写真家として起業。メインテーマとして女性を撮り始めた。二十歳の時、自分が世界一可愛いかもと思いながら臨んだ成人式の前撮りで、“どすこい力士”としか言いようのない仕上がりの写真を見て以来、自信をなくした経験があったから。そのせいで、20代前半の写真はほぼない。


でも起業後は、写りの悪さは単なる練習不足のせいだと捉えるようになり、苦手意識のある女性に向け、素敵に写るための心構えや実践的な方法を教える「写真にうつるお稽古」を始めた。300名以上が受講し、数時間で写真嫌いな人が自分を解放し、撮られることが大好きになるという奇跡のような瞬間に立ち会うことができた。
そんな中、2016年に当時SNSを賑わせていたHANANINGENに出会った。頭を生花で飾った人々の写真を見て直感が働いた私は、体験のため札幌に飛び、戻ってすぐ代表に「関西でやらせてほしい」と連絡。翌年には、夫と入籍し、クラウドファンディングで募った資金でHANANINGEN第2号店となるakizuki galleryを二人で立ち上げた。ヘアメイク、装花、撮影、レタッチ全てをこなし、2年弱で1800名を撮影。コシノ三姉妹とのコラボ装花の機会ももらい、大きな達成感を味わった。しかし、その活動も2018年末に終了。切り出したのは夫だったが、私も他人が生み出したアイデアを愛し続けることができなかった。


以来、残りの人生何をしようと考えているが、やっぱりやるべきことは変わらない。私にとって女性を撮ることは、勘違いを拭い、自分の無限の魅力を知ってもらうという行為。だから、5年間で培った写り方のノウハウや考えを世の中に伝えたい。かつて写真で自信をなくし、自分を押し殺していた私のような女性に向けて。




-------以下、長すぎる書きなぐり自己紹介-------



子煩悩で仕事好き、好きなことをとことん追求する父と、

我慢強く子ども好きな看護師の母との間に、

三人兄弟の2番目に生まれる。

頭脳明晰で学力優秀な兄と愛され上手な妹のはざまで、

居場所がないような幼少期を過ごす。

日本昔話とグリム童話をこよなく愛し、

物語の中に自分を登場させて妄想するのが自分の居場所だった。

内気で人に面と向かって話すのが苦手であるものの、

文章にのせるといくらでも心が自由に動き出す才能は、

このころの妄想壁が影響していると思われる。

幼少期からマイペースで

幼稚園の給食はいつも食べるのが遅く、

居残りさせられていたタイプであった。

お遊戯会ではドレスや着物の女の子に憧れるも

「それがやりたい」とは言い出せない控えめな女の子であった。

体操クラブや英会話クラブのような華やかなクラブに憧れるも

実際に自分がしていたのは鼓笛隊のピアニカであった。

小さな頃から

周りの空気を読もうとする優しい子であった。

内弁慶な性格で、家ではワガママもイヤなものはイヤだと騒ぎ立てるが

一歩家の外に出ると借りてきた猫のように大人しくなるのであった。

他人の前で自分を表現するのは苦手であった。

自分の家と、外の世界との間に、非常に分厚い扉を作る性格であった。

小、中学生のときも控え目にすごし、

ありのままの自分をごく少数の仲良しの友達や、

先生以外の前で表現することは少なかった。

自分の世界と、外の世界を大きく区別して認識していたものと思われる。

学力も優れていたが、特に国語や図工、家庭科が得意であった。

没頭できるもの、夢中になれるものにはとことん夢中になっていた。

これは父親の影響を受けているものと思われる。

また、負けず嫌いな性格はこのころからあり、

算数の九九の計算の競争ではいつも上位にいた。

人より優位に立つのが好きであったが

控えめな性格ゆえ、自分を出せずに悩むことも多かった。

小学生の頃からメガネをかけており、

地味な自分の姿がコンプレックスであった。

こだわりも非常に強く、

いつもロングヘアーを後ろで1つに束ねていた。

中学生になると、

余計に外見コンプレックスは強くなり、

メガネにくせ毛、ニキビ肌に酷く悩まされ、

そんな自分を嫌がり、苛立ながらも、

何もできない、どうしていいかわからないまま

とにかく控えめに控えめに日々過ごしていた。

小学生卒業前に、

男の子の友人にからかわれたことがきっかけで、

男性と話すのが苦手になる。

中学に入るとちょっとしたことで兄と大げんかし、

あまりにもこわかったために

以来数年間に渡りお互いに存在を無視するようになる。

それもあり、

ますます男子と話すのが苦手になり、

同時に酷く緊張するようになり、男性と話すと顔が赤くなってしまい、

それがイヤで近づかなくなっていった。

中学生の頃から

生きる意味が見いだせず苦しい日々を過ごしていた。

愛とはなにか、

どうして生きることはこんなに苦しいのか、

そんな思いを、新しい物好きな父が買ってきたパソコンの

インターネット上で公開するようになる。

インターネット上ではなんでも自分を表現できる気がしており、

どっぷりはまる。

自分でホームページを作ったり、日記を日々投稿したり、詩を作ってはサイトに投稿していた。

すると、いろんな人が自分に関心を持ってくれ、

文章を褒められたり、素直な表現に心を打たれたと感想をもらうようになる。

自分を表現することで、世界に受け入れてもらうことの悦びを

この頃知るようになる。

高校受験時に猛烈に勉強をがんばり、

希望の高校に入学する。

それとともに、高校デビューを実行。

ストレートパーマにコンタクトレンズ、

がんばって男子とも話すがうまくいかなくなりまた避けるようになる。

ほんとは、恋もしたかったのに、

いっぱい話したかったのに、

勇気が出なかった。

高校在学中に、半保健室通いになる。

酷く生きづらく、成績も落ち、

将来が見えず、授業中も寝てばかり、

そんな自分を責めるようになる。

保健室の先生だけは

私の話を聞いてくれた。

死にたい欲が強く、

保健室の先生に送ったメールで

外部のカウンセリングを紹介される。

保健室の先生に連れられて

箱庭をしたり、話を聞いてもらったりする。

遅れていた勉強も教えてもらった。

「私ってやっぱり普通じゃないんだ。もうダメなんだ」

そんなことを思いながらも

なんとか高校を卒業。

ほんとうは、製菓学校や専門学校に行きたかったけれど

安定志向の親と祖母の話を聞き、

大学受験。

一本狙いの国公立を受けたが不合格。

滑り止めの短大だけに合格。

プライドはズタズタ、

浪人するほど気力もない、

早く卒業して早く働いてみんなよりお金稼ぐぞと

短大に通い始める。

高校の卒業旅行で手にした父のデジカメ。

そこで写真に興味を持ち、

バイトをして自分のカメラを購入。

空や風景などを撮り始める。

短大では写真部に所属。

実家の近所の写真屋のおじさんと仲良くなり、

写真にはまっていく。

おじさんが褒め上手でどんどん撮りまくる。

フィルムの1眼レフを購入する。

背景をボカす撮影方法にはまる。

短大に入ると、バイト三昧な生活を送るようになる。

今まで我慢してたものが爆発したかのように、

イベント派遣のバイトが楽しくて

授業そっちのけではまる。

短大卒業後は雑貨屋でアルバイトとして働く。

が、1年も経たないうちに辞めることになる。

お客さまからの電話に対応できなくなりパニックになる。

号泣してどうにもならない状態になり帰宅させられる。

そして心療内科デビューをし、

うつ病と診断を受け、アルバイトを辞める。

病院に通い大量の薬を飲みながら

自分を殺して生きていた。

1年ほど実家で休養してから

当時付き合っていた遠距離恋愛の彼氏のもとへ行き、

同棲するようになる。

同棲するようになると、

うつ病が回復。

勝手に薬を減らしていき、

研究所で働きながら、

新妻のようなことをして楽しく暮らす。

1年ほど経つと

「正社員として働いてみたい」という思いが現れ

「全国転勤の仕事をしている彼といては雇ってもらえない。大阪帰る」

と、

彼とまた離れ実家に戻る。

そして会計事務所の正職員として勤め始める。

が、

すぐに彼にすきな人ができたと言われふられる。

もう死ぬと、家族や友だちを巻き込み辛い日々を送る。

暗黒時代へ突入と思われたが、

私にはもう写真しかない。

死ぬ前に自転車で行ける所まで行ってみよう。

カメラをぶら下げて。

写真撮りに、いこう。

やるだけやって、死のう。

と、意味のわからない行動をとり、

真夜中に家を飛び出し、

2駅ちょっと自転車で走ったあと、

疲れたので帰宅する。

そしてその後

とにかく写真を撮りまくる。

何かを忘れるように、

新しい出会いのために、

写真展に出展しまくった。

とにかく、

新しい出会いが欲しかった。

とても不純な動機で写真と関わっていた。

そこではじめて、

自分の写真が思いのほか評価されることを知る。

はじめての出展はとてもこわかったけれど、

想像以上に評価され、どんどんはまっていった。

そして運命の写真屋さん「ナベカメ(今はもうない)」と出会い

駆け込み寺として多いに通いまくる。

不思議な写真屋さんで、店長のおじいちゃん(つるぱげの強面)との出会いが

今ここにわたしを存在させ続けているように思う。

あたらしいカメラを手に入れ

自宅での花の撮影にどっぷりはまる。

いつでもできるその花の撮影は

わたしから煩わしい感情を遠ざけてくれた。

頭を埋め尽くす苦しい思考を

一瞬にして取り払ってくれた。

まるで麻薬のようだった。

感受性も繊細さも

わたしにとっては邪魔で無駄なものでしかなかった。

わたしの人生は苦しい。

苦しかった。

花の撮影をするようになり、

ますます展示会に出展するのが楽しくなった。

どこにいっても一目置かれる。

自分はすごい。

幼少期に満たされなかった

「もっと褒められたい」

「もっとわたしだけをみてほしい」

そんな欲望に触れられるようで

とても心地がよかった。

人の心を動かすことができる。

でも

いつまでたっても自分の人生そのものは苦しかった。

写真以外はいつもトラブルや問題が起こっていた。

人付き合いもうまくできなかった。

そして2012年秋心屋仁之助師と出会う。

テレビで発見し、ブログを読みあさり、即会いにいった。

カウンセラー養成コースへ応募する。落選。

その後、繰り上がりで受講できることになる。

スクールに通う中で、

私は自分をひとつも信用していなかったということに気がついた。

他人の言葉をあまりにも素直に信じこみ、

その通りにできない自分はダメなんだと、

一生懸命他人軸で生きようとし、

自分というものを見失っていたから

いつも苦しかったのだと。

カウンセラー養成コースに通う中で

5年勤めた会計事務所を退社、

昔から大好きだった京都へ移住。

会社に勤める道以外選択肢になかった私が、

カウンセラーとして、

また写真家として生きていく道を選んだ。

ダメならまた勤めればいいやと、思いながら。

それまでずっと自分の人生に遠慮し

自分の力を過小評価し

自分はこんなもんだと思って生きていたのを

疑うことからはじめていった。

「写真で稼ぐのは無謀」

周りのカメラマン、写真家たちの呪いは強力だった。

だけど、やってみたかった。

まずは、

心屋先生になんとなく言われた

個展で入場料を取る、ことからはじめた。

そんなことしてる人はあんまりいなかった。

でもやった。

次に、

人を撮影してお金を頂くことにした。

2013年の7月頃からはじめ、

個人撮影8,000円のモニター価格からはじめていった。

正規価格3万円にすると、

依頼はガクンと減った。

会計事務の派遣社員を週4日ほどしながら

写真の仕事をしていたが、

京都を一望できるステキなデザイナーズマンションでの

一人暮らしは、貯金を切り崩していく生活だった。

そんななかで、

京都の写真コンテストで、賞を受賞する。

副賞としてのグループ展で、

夫、たけしくんと出会う。仲良くなる、付き合う。

もうやばい、

もう来月こそ家賃が払えないかもしれない。

というときに、

たけしくんと一緒に暮らすことになった。

「頼る」ことを

勇気を出してやった。

いろんなこわいことはあったが

もう自分じゃどうにもできなかったので諦めた。

同居し始めて3ヶ月くらいで

派遣社員を辞めることを決意。

2014年10月頃退社。

また写真一本でやっていくことにした。

そこで「写真に写るお稽古 みやびの撮影会」を考えだす。

写真に写るのが大嫌いな写真家みやび監修の撮影会。

写真は慣れ、

そして

自分のステキな写真が撮れた時の

心や身体に与える影響を

自らいろんなレッスン受講や撮影体験をして知る。

2014年冬、

あっという間にみやびの撮影会は満席多数の

大人気イベントとなる。

コンサルタントとともに「目で見るカウンセリング」という

写真を使ったカウンセリングメニューを作る。

順調に求められる日々。

誰から見ても何もかもが順調な中で、

本人だけがグズグズと悩む日々。

2015年夏、

「自分の本当にやりたいことは何か?」

という質問にこだわり始める。

そんな中で、HANANINGENと出会う。

札幌まで体験しに行く。

とても気に入り、代表Hikaruさんに関西での開催を熱望する旨のメールを送る。

その翌年なぜか、自分が京都でHANANINGENをやることになる。

そのタイミングで会社を設立する。

武くんと結婚する。

資金集めのクラウドファンディングで大成功を収める。

自社スタジオを持つ。

ヘアメイクを習得する。

HANANINGEN KYOTOをオープンさせる。

撮影はほとんどせず、装花とメイクを担当するようになる。

横浜、大阪、京都のお寺で装花ライブショーを行う。

自分が何者かわからなくなる。

猫と暮らしだす。

 

「写真にうつるお稽古プレミアム」という

写真うつりをマンツーマンで一日みっちりレッスンするメニューを作る。

問い合わせが殺到する。

 

「秋月雅の100人撮影マラソン」というプロジェクトを突然行う。

100人の女性を一切注文を聞かずに自分のやりたいようにする撮影。

申し込みが殺到し、常にスケジュールは満席。

87名くらい撮影したところで気が済んで終える。

 

2018年末、2年弱、HANANINGEN KYOTOを運営する中で

ある日突然、夫にHANANINGEN KYOTOを終えることを告げられる。(決定事項)

最後の12月の予約がパンクする。

月商が過去最高額に達したところで、潔く卒業。

 

現在に至る。

好奇心旺盛な飽き症。

次から次へとあふれてくる「やってみたい」

勇気はあるが繊細。

どこに行くか目が離せない面白さ。

というわけで、

多くの人々の興味をひき付けながら活動中。

人一倍恐がりで、

繊細で、すぐ不安になる。

そんな自分とともに

今まで自分が想像さえできなかった人生を

作りたいと思うようになっていった。

不安も恐怖もあったけど、

やめようとしなかった。

なんともならないよ、もう無理だよ、やっぱり無理だよ

何回も何回も、毎日のように

そう思って活動していた。

ちょっと嬉しいことがあっても、

すぐにイヤなことが起こったりした。

だけど

自分に噓をついたり、

我慢をしたり・・・

自分を殺して生きていた自分に戻りたくないと思っていた。

愛されないことを怖がって

やりたいことを遠慮するのがイヤだった。

どんなにこわくても

できなくても

それでも

自分を諦めたりしたくなかった。

酷く辛い思いをして思春期を過ごしてきた。

生きづらい。

うまくいかない。

ちゃんとできない。

言葉にできないつらい思い。

そんな中で出会った写真。

ファインダーから覗く世界は、

自分が普段見ている世界と違い、

とても優しかった。

写真は何も言わない。

被写体も何も言わない。

ただただじっと、

どこまでも、

自分のことを受け入れてくれる。

写真を見るということは

自分と対話すると言うこと。

風景、花、ヒト、猫、日常生活、スタジオ撮影。

被写体はずっと変わっていったが、

どれを通しても

自分と対話してきたことにかわりはなかった。

写真を通して、

自分をどこまでも受け入れていった。

自分を受け入れるということは

世界を受け入れるということ。

写真を通して得たこの世界観を

より多くのひとに伝えるために活動している。